
秋山自雲功雄霊神
略して「痔の神」「痔病神」
疾病平癒の霊験あらたな神として
現在もなお多くの人々の
信仰が寄せられています

庶民信仰と本性寺
かつては、摂家・二条斉信(左大臣)や、諸候(のちに華族となる)、幕末の剣豪・北辰一刀流の千葉周作なども厚い信仰を寄せたといわれています。「秋山自雲」というのは岡田孫右衛門という人の法号です。孫左衛門は摂津国川辺郡小浜村(兵庫県)に生まれ、もとの名を善兵衛といいました。14歳のとき、江戸霊厳島(現在の東京中央区新川周辺)の酒問屋・岡田孫右衛門方に奉公をし、のちにこの養子となって孫右衛門と名を改めました。38歳のとき、悪質な痔疾にかかり、いろいろ治療したのですが何の効果もなく、ついに髪をおろして本性寺の題目堂に籠(こも)り、懺悔滅罪(ざんげめつざい)の唱題修行に専念しました。しかし、全治に至らず、45歳で示寂(じじゃく)しました。
孫右衛門は臨終に際して「自分の死後、痔疾に苦しむ人が一心に題目を唱(とな)えたらならば、必ずこれを守護し、平癒させると誓願をたて、これによって孫右衛門が本性寺に葬(ほうむ)られてから、古い友人の一人が痔疾を患(わずら)い、孫右衛門の誓願を思い出して祈念したところ、二か月ほどで快癒したといいます。以来人びとが孫右衛門の墓や題目堂に参詣して、痔疾平癒の祈願をするようになったといわれています。 そののち、故郷の小浜村本妙寺(兵庫県)と京都東漸寺に祀(まつ)られるようになり、痔の神として信仰されるようになりました。 最近の信者には女性も多く、年に一度だけ、授(さず)けられた「妙符」をのみ、毎日おこたらずに祈念し、満願のおり再発防止の祈りを籠(こ)めてお礼を奉納する仕来(しきた)りとなっています。
秋山自雲霊神のご信仰
秋山自雲功雄霊神のご信仰は、名古屋より西、とくに関西を中心に盛んであるといわれています。それらはみな当山本性寺より分祀したものです。昭和9年(1934)に発行されました小浜の本妙寺(現在の宝塚)にも「是を以て衆庶支堂石碑等を建て分魂祭祀するもの枚挙に遑あらず、当本妙寺は秋山自雲霊神御出生の霊場たるの因縁に依り分骨祭祀するに到れり」と記されています。文化12年(1815)に刊行された「遊歴雑記」の著者・津田十方庵も本性寺を訪れ、「浅草山谷寺町痔仏」と題して記載しています。延亨元年(1744)から文化12年まで、すでに72年間も霊験がきこえている「碑文谷の仁王、堀之内のお祖師さま、善国寺の毘沙門、高田満願寺の祖師、下谷上野徳大寺の摩利支天、どぶ店の祖師、宗柏寺の釈迦、押上村の妙見尊、入谷の鬼子母神、三崎の瘡守稲荷、雑司ヶ谷鬼子母神、芝股(現在の柴又)の帝釈天、長国寺の鷲大明神、下谷妙音寺の弁天、延命院の七面神」これに本性寺が加わり、これらはみな法華のお寺で門前は市をなして繁盛している。と記しています。また新編江戸名所図誌にも、「秋山自雲霊神 本性寺境内にあり。近世痔疾をなやむもの是を祈りて新川の酒問屋岡田孫右衛門と云ふ者の代、善兵衛と云者痔疾を受く。延亨元甲子年9月21日ついに死の末期に誓て痔疾を病むものを治さんと云。其霊を祀る所也。」記されております。また先述した摂家・二条斉信は歌人としても名高く宣隣と号しましたが、その歌碑が境内の題目堂のそばに建立されております。
毎年1月21日は秋山自雲功雄霊神大祭が奉修されます。
(午前九時より午後四時まで)
ご本尊を本堂でご開帳し、御祈願させていただいでいます。普段も御祈願はさせていただいていますので、あらかじめ電話またはメールにてお問い合わせください。
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